ホーム » 会社概要 » 当社のあゆみ(創業〜2014年代)
創業者の岩井昭一は、仕事に一生懸命な父親が事業に失敗し、貧しい少年時代を過ごした。早くから丁稚奉公に出た創業社長は、学ぶことに貪欲だった。夜間の大学に通いながら、昼間は必死に学費を稼いだ。様々な仕事を経験する中、ネジの営業へ没頭していく。 組み立てる商品がある限りネジは必要とされ、これからの日本の経済成長と共に、更に需要が増える!と可能性を感じていた。 中学の恩師から掛けられた言葉、『鶏口となるも牛後となるなかれ』という言葉を胸に、『いつか独立したい』と夢を叶えていく。
岩井昭一は大学卒業の3年後、茨城県神栖市にて「岩井ボールト工業」を創業。お金・人・お客様・在庫など何も無いなかでのスタートだった。夜はスクラップや段ボール集めのアルバイトに勤め、1日の生活費を稼いだ。ビス1本も無駄にしない倹約の徹底や、同じ会社に何度も足を運んだ営業の成果が実を結び、徐々に注文が増えていった。実直に経営を積み重ねていった結果、お客様や仲間にも恵まれていき、仕事は右肩上がりに増えていった。
「加工をメーカーに頼むと時間がかかる」という課題を感じた創業社長は、自社で穴あけ・ねじ切り・旋盤・フライス・溶接の加工ができる工場を開設。これを機に、ネジ以外の加工部品の受注も増えたことで、商社として東京や大阪のメーカーに外注する仕事も増えていった。現社長である岩井和彦も、高校在学中の3年間はこの加工工場でアルバイトとして勤めた。
バブル崩壊後に多くの企業が倒産したが、県内にある鹿島臨海工業地帯だけは大手企業の増設が続いていたため、不景気しらずだった。これにより岩井ボールト工業も順調に業績を伸ばし、創業以来夢だった鉄筋コンクリートの2階建て事務所を無借金で建設した。(茨城県神栖市奥野谷5900-11 )
ネジで地域一番店となり、順調に業績を伸ばした。仕事には恵まれた創業社長だったが、人の採用と教育に苦労し、無断欠勤や遅刻を繰り返す社員や、挨拶や掃除をしない社員に悩まされた。そこで創業社長は自ら率先して掃除に励み、全社員が参加する朝礼も取り入れ、徐々に会社が変化していくのを実感した。仕事だけではなく、人財育成の必要性を強く感じた創業社長は、健全経営を目指し、株式会社へと法人化した。
小学生の頃から「父親の会社を継ぐ」と決めていた現社長はその気持ちを創業社長に告げた。その後5年半の間、社会人としてネジ問屋で修行を積み、ついに岩井ボールト工業に入社した。
学生の頃に勤めていたネジ問屋が廃業になると聞いた創業社長は、その会社を買い取ることにした。現社長は、この会社の経営を創業社長から打診され、迷いなく承諾した。社名を「タイヨー精密株式会社」とし、当時26歳で代表取締役に就任した。社員ごと引き受け、まず行った事はムリ・ムラ・ムダの改善。基礎・基本を忠実にやり抜いた結果、同年の12月末の決算で黒字化、賞与支給の成果を上げる。この時に経営者として行った「基礎基本の徹底」が、今のいわいの理念に通じていく。
現社長は「3代目を社員の中から生み出す」という目標を持ち、本体の岩井ボールト工業株式会社の専務取締役に兼務で就任した。経営に目覚めた現社長は、社内システムを活用している会社へベンチマークしに行く。自社でも出来る事を!と社のロゴやユニフォームを作成した。また新倉庫の開設や管理システムの開発に向け動き始める。「無名から一流への挑戦」を掲げ、最初は誰1人来なかった新卒採用も徐々に増えた。増えていくほど人財育成の仕組みの重要性を感じ、意識改革として挨拶・返事・掃除などを厳しく徹底した。思うように伝わらず社員に怒鳴ったり、父でもある創業社長とも経営で衝突し、自分のやっている事は正しいのかと悩んだ。
現社長は、将来2代目社長となる上で経理業務を1つの会社として管理し効率良くする為に、タイヨー精密と岩井ボールト工業を合併させることにした。合併にあたり、1年以上打ち合わせを重ねて作り上げた管理システムを導入し、システム化することに成功。その後、クラウド対応のシステムに進化している。現在では、社員自らがプロジェクトを組み、日々業務を行いながら、より良いシステム・仕組みへの改善にも取り組んでいる。
工場を新装し、ネジ以外にもすぐに欲しい!こんな形のものが欲しい!といったご要望に対する加工を行えるようになった。更に、消耗品・工具なども取り扱う総合商社として新たにスタートを切った。これを記念し、新装した加工センターで『ありがとう感謝祭』を開催。現在全国各地からたくさんのご要望を頂くテーパーライナーもお客様の小さな声から形にしていった㈱いわいの売れ筋商品である。
専務就任時から人財の採用に力を入れてきたが、今後会社をより大きくするためには幹部候補となる若手人財が必要と考え、大卒人財の採用に踏み切った。積極的に採用の場に自ら足を運び、直接想いを伝えていった。その成果が表れ、当時同業者では難しかった大卒の採用にも成功し、社風も大きく変わっていった。
2008年9月 リーマン・ブラザーズ・ホールディングスの経営破綻の影響により、今まで右肩上がりに伸びていってた数字も下降し始めた。『仕事がないなら仕事を創ろう!』と必死になった。リーマンショックを期に社長になる事を決意し、現社長はついに「岩井ボールト工業株式会社」の代表取締役に就任。創業社長は会長に就任した。その後、数字は伸びる事なくリーマンショックの2年間で赤字は1億円近くに上った。創業社長は「社員に給与をしっかりと出し、会社の未来に投資してほしい」と会長を辞任し、退職。この想いを無駄には出来ないと奮起し、見事2011年に年商10億、経常利益3,000万円というV時回復を達成した。
現社長は、毎日東京営業所から車で川崎へ営業に通う社員が、お客様より「いわいさんのライバルは朝お願いしたものを、午前中に持ってくるよ」と言われ悔しい想いをしている事を知る。その悔しさから「川崎市に営業所を創りたい!」と夢を語る若手の姿に、現社長は川崎営業所を開設する事を決める。社員の夢を叶える営業所開設の第一号として、川崎営業所を2014年3月に開設。その社員を所長に抜擢した。※2019年12月31日をもって閉設
更なる挑戦へチャレンジする為に大学・大学院新卒採用を開始した。採用だけでなく、入社後の人財育成にも力を入れ、外部の講師を招いたマナー研修や自らが会社への想いや、経営に対する考えを伝える社長研修など、いわい人としての基礎をしっかりと伝える機会を設けた。また、泊まり込みで行うこの研修が同期との親密性を深め、いわいの和気あいあいとした社風を築き上げている。
現社長は「時代の変化に対応し、総合商社として事業を拡大していく中で、誰からも親しみやすくシンプルに」と想いを込めて、創業40周年の節目に「岩井ボールト工業株式会社」から「株式会社いわい」へと社名を変更した。
社員の夢を叶える営業所開設の第二号として市原営業所を開設。現社長は、この大きな役割に若干25歳の若手社員を抜擢した。彼は、入社一年目より抱いていた「千葉に営業所を出したい!」という夢をゼロイチプレゼンで勝ち取った。立ち上げからの困難の中で、価格競争からの脱却、モノ売りからコト売りへの転換など、現在のマッチングサービスの基礎を創り上げた。